「コンテンツ」と「ディストリビューション」再考

このブログを始めて3年が経ちました。最初のエントリで書いたコンテンツとディストリビューションの関係を、今のタイミングでもう一度考え直してみたいなと、しばらく考えつつそのままにしていたのですが、この機会に取り上げてみたいと思います。

「Content is King」−優れたコンテンツを押さえたものが、最も大きな力を持つ。これは、ジャーナリズムからエンターテインメントまで、メディアの世界で広く言われてきたことです。しかし近年、「コンテンツではなく○○こそがKingである」といった主張もされています。

偶然なのかどうか、"○○"にはコンテンツと同じく"C"で始まる単語が入ることが多いのですが、例えば次のようなものがあります。
・Context is king [コンテンツが置かれた文脈・意味合い]
・Communication (あるいはConversation) is king [コンテンツが生み出す会話・対話]
・Community is king [コンテンツを介して生まれるコミュニティ]
・Platform is king [コンテンツがやりとりされるプラットフォーム]
そして最近では「Curation is King」といったことも言われています (例えばBusiness Insiderの記事を参照)。キュレーションという言葉はひと言では説明しにくいのですが、佐々木俊尚さんの『キュレーションの時代 -「つながり」の情報革命がはじめる』などを参考にすると、[コンテンツに意味合いを与える行為]とでも言えるでしょうか。

これらはいずれもコンテンツの流れとその周辺、つまりディストリビューションに関するエリアにおける指摘だと考えられます。コンテンツの流れが以前では考えられなかったほどに多様化し、その中でいくつかのキーとなる側面が浮かび上がって来ているのです。一方コンテンツ自身については、相対的に影が薄くなっているようで、例えば「3D is king」といったような新しい形のコンテンツの力を称えるフレーズはあまり耳にしません。

ただし、ここで留意すべき点は、上記のCommunicationやCommunity, Curationなどは、それ自身が重要性を増しているとともに、それを通じて新たなコンテンツを生み出してもいるということです。ディストリビューションの多様化は、コンテンツの複層化につながっているのです。

この点をもう少し詳しく見てみましょう。便宜上、プロが作って広く流通させる従来型のマス・コンテンツを「一次コンテンツ」と呼ぶことにすると、今述べたような、その一次コンテンツを元にした会話やコミュニティ、また一次コンテンツの評価・批評などから生まれるコンテンツは「二次コンテンツ」になります*1。一方、最近は伝統的なマスメディアに乗る以前に世界に広がるコンテンツというものもあります。例えば中東のデモなど、大きな事件が起きた時にすさまじい速さで伝播するツイッターの投稿などです。*2。これは「0次コンテンツ」です。情報を世界に広める上では従来メディアの手を借りているとはいえ、ウィキリークスが提供するものも性質的に「0次コンテンツ」の一部だと言えるかもしれません。

こうした図式で見ると、現在のコンテンツの流れは、従来型の「一次コンテンツ」がある一方で、日々それをもとにした膨大な「二次コンテンツ」が生まれ、また、しばしば「0次コンテンツ」が世界を駆け巡る、という形になっています。

だとすると、上に挙げた中でContext, Communication (Conversation), Community, Curationは、主に二次コンテンツの重要性を強調したものだと考えることができます。例えば最近のWired Visionに『NY Timesが「Huffingtonリブログ」に負ける理由』という記事が載っていましたが(こちら)、これは、一次コンテンツに対して、見やすさや双方向性を高めた二次コンテンツが優位性を示したことの一例です。また、ツイッターフェイスブックのようなプラットフォームは、0次から二次までをひっくるめた各種コンテンツを行き来させる場になっています。そこに「一次コンテンツ」をどれほど流すかは、従来メディアの側に球が投げられている状態です。*3

ここまで述べてきたことをまとめると、「コンテンツの重要性が相対的に落ちて来ている」というのは、より正確に言えば「一次コンテンツの重要性が相対的に落ちて来ている」ということなのだと思います。逆に、0次コンテンツと二次コンテンツの存在感は、かつてないほど高まっているのです。今はもはや、コンテンツとディストリビューションを明確に切り離すことは困難です。コンテンツが流れていく過程で生まれる文脈や会話、コミュニティなどが新たなコンテンツになり、流れを加速させたり方向を変えたりするのです。また、マス・コンテンツとして取り上げられる以前のコンテンツが広く知られることも珍しくなくなりました。何か一つをKingにすることはできない「王不在」の時代なのだろうな、という気がします。

*1:三次、四次…と続いていくこともありますが、ここではそれらもまとめて「二次コンテンツ」とします。

*2:ツイッターのつぶやきは、アメリカの連邦議会図書館に所蔵される「コンテンツ」です。

*3:仮に「一次」がなくても、それをもとにした「二次」コンテンツがびゅんびゅんと行き交っているのですから、従来メディアにとっては"全く無視"という訳には行きにくいかもしれません。

ボブ・マーリーと息子のステファンが共演する「Redemption Song」

音楽プロジェクトPlaying for Changeの活動が最近活発になっているようで、先日紹介した(こちら)「Imagine」に続く新録が発表されました。今回はボブ・マーリーの「Redemption Song」です。

埋め込みが上手く行かないのでリンクを貼ります。

http://playingforchange.com/episodes/40/?utm_source=pfcemail&utm_medium=email&utm_campaign=ep40

ボブ・マーリーの生誕日(2月6日)を記念してということですが、個人的にすごく好きな曲なのでこれは嬉しいです。しかも、曲中では、息子のステファン・マーリーがかなりフィーチャーされていて、さらに途中からは在りし日のボブの映像が−。また、オープニングを津軽三味線の吾妻宏光さんが演奏しているところも注目です。ご覧になってみて下さい。

TED Booksを読んで感じたこと

前回紹介したTEDの電子書籍TED Books、購入した1冊を読み終わりました。読みながらこのTED Booksという取り組みについて感じたことを簡単に記します。

まず、クリス・アンダーソンがTED Booksの特長であるとした「短さ」ですが、これは確かに斬新で、普通の読書とはひと味違った印象を受けました。

僕が読んだのは、第一期に発行された3冊の中で一番短いGever Tulleyの書籍(31ページ)です。英語を母国語とする人の3〜4倍ぐらいは時間がかかっていると思いますが、1時間半程度で読み終わりました*1

英語ネイティブの人の感想とは違うかもしれませんが、僕の感覚でいうと、英語で書かれていてもこれぐらいで読み終われるのであれば、他の作品も読んでみようかという気持ちになります。英語力が十分でない非ネイティブにとっては、通常の長さの英語の本を読むのは時間的にも労力的にもかなり大変です。実際、僕は英語で面白そうな本が出ても原書を買うことは稀で、大抵は邦訳が出るのを待っています。TED Booksは、その点かなり利用しやすいものになっていると感じます。

もちろん、本文が短いので、伝えられる内容には限りがあります。岩波のブックレットとか、以前に角川が出していた角川mini文庫とか、書籍でいえばそんな感じのイメージでしょうか。ただ、ブックレットやmini文庫のように極めて薄かったり小さかったりする本は、棚で探しづらかったりちょっと安っぽく感じられたりという側面も否めません。電子書籍の場合はそうした不都合がないという点は違いと言えるかもしれません。

クリス・アンダーソンは「今の時代の関心時間(attention span)」に合わせて本の長さを短くしたと述べていますが、自らの興味を強く惹く「特別なもの」*2には思い切り時間を振り向けるけれど、そこまで行かないものに対しては時間と感心の振り分け方がどんどんシビアになって来ている、というのが今の時代の特徴だと思います。だとすると、テーマを絞って、長さを抑えて、人々のattention spanにコンテンツのフォーマットを合わせるという方法は、「興味はあるけれど特別だとは言えないコンテンツ」にとって、合理的な戦略の一つと言えるのではないでしょうか。

このattentiin spanに関連してもう一つTED Booksから感じたのが、「内容のコンパクト化」は書籍に限ったものではなく、他のメディアでもその流れが起きつつあるのではないだろうかということです。例えばゲームの世界では、既にスマートフォンSNS上で気軽に楽しめる短い作品が大きな存在感を持つようになっています。テレビ番組や雑誌、新聞などでも、内容のコンパクト化に対するニーズが今後高まってくることは十分に考えられます。ただし、「コンパクトではない形」のコンテンツを主力とする既存の企業にとっては、諸刃の剣になりかねないものなのかもしれません。

メディアの種類がどうあれ、コンパクト化を成功させるポイントは、中身の濃さと面白さのレベルを保ったまま短い作品に仕上げることができるかどうかという点に尽きるでしょう。これは、長い作品を要約・濃縮するというだけでなく、別のアプローチが必要になってくるはずです。TEDは動画ではそれが可能なことを示してきましたが、書籍でもそれができるのかどうか、また他のメディアでどのようなコンテンツのコンパクト化が現れてくるのか、注目していきたいと思います。

*1:同一画面で簡単にわからない単語の意味が調べられるKindleの辞書機能にも大分と助けられました。

*2:「特別なもの」というのは、例えば世界的なスポーツ大会(延長にまで突入した深夜のアジア杯サッカーを嬉々として見ていた人は多いはずです)や超大作映画(もう1年前ですが「アバター」は162分の作品です)、話題の書籍(「1Q84」は第3部までいずれも大ヒットしました)などです。もちろんもっと目立たないものでも、嗜好によって個人的に「特別」になるものもあるでしょう。

TEDの電子書籍

TEDが電子書籍「TED Books」の刊行を発表しました。第一弾として、TEDカンファレンスにスピーカーとして登壇したことのある3人の、著作がAmazonKindle Store上で刊行されています。タイトルは以下の通りです。

「Homo Evolutis」 Juan Enriquez & Steve Gullans
「The Happiness Manifesto」 Nic Marks
「Beware Dangerism!」 Gever Tulley

これらは、TEDトークのテキストを書き起こしたものではなく、新たに書かれたものだということです。

TEDのウェブサイトに出版の経緯や目的が記されています(こちら)。通常の本の三分の一程度もしくはそれ以下の長さ(上記3冊をは上から58、40、31ページ)で、アメリカでは1冊2.99ドルで購入することができます。日本だと、Kindleで一般の電子書籍を買う時と同様、2ドル上乗せされて4.99ドルになります。

TEDのサイトにある説明を引用します。

TEDトークの成功は、世界中の何百万という人々が新しいアイデアを欲していることを示しました。トークの多くは、より深くその話題を知りたいという欲求を生み出します。しかし皆がそのテーマについて1冊の本を丸々読む時間を持っている訳ではありません。TED Booksはそのギャップを埋めます。従来の本は少なくとも6万語ありますが、TED Booksは2万語以下です。ひとつのアイデアが十分に伝えられ、しかも読み終わるのに1週間もかける必要がありません。(中略)これは、読書のレベルを下げるということなのでしょうか?私たちは、TED Booksを読む人はレベルが下がるのではなく上がるのではないかと思っています。雑誌を読んだりクロスワード・パズルをする代わりに短くて中身の詰まった本を読むのです。私たちが目指すのは、今の時代の「関心時間(attention span)」に合わせた形でアイデアに接してもらう方法を作ることです。

「原則18分以下」というルールの下でスピーチを行うTEDトークが広く受け入れられたことに基づき、濃縮した短い本をネット上で流通させようという試みのようです。

自分も1冊購入してみましたが、まだ読んでいないので内容の濃さについてはここでは触れません。ただ、読書に充てられる時間が限られていて、読みたいけれど読み切れていないという本がどんどん溜まっていく人間の一人として、このような形の書籍には非常に興味があります。

TEDの大きな強みとなるのは、TED Booksの本と、著者によるTEDトークを互いに薦め合うことができるという点でしょう。実際、公開されている著者たちのTEDトークに「TEDbooks」というタグをつけるだけで、簡単に著者のトークがまとめられたページが作られています(こちら)。

TEDトークとは違いTED Booksは有料ですが、アメリカ国内の2.99ドルという値段であれば、もちろん内容がしっかりしていればという前提の上でですが、有料であることはあまりTED Booksが広まる障害にはならないのではないかという気がします。ただ、Kindleのルールに則って日本からだとプラス2ドル余計にかかるというのは、こうした元値が安い本にとっては高すぎます。これはTEDというよりAmazonに対する不満ですが、短い本はデータのサイズも小さいはずですから、せめてプラス1ドル程度に改善してほしいものです。もっと言うと、Kindleではない他のプラットフォームでもTED Booksを販売し、世界どこからでも一律2.99ドルで入手できるようにしてくれないかな、という気がします。

New York Timesがたどるアップルの歴史

このブログで幾度か紹介したことがある、New York Timesのウェブサイトのインタラクティブな図表(こちらこちら)。最近あまり興味を惹かれるものがないなと思っていたら、久しぶりに面白いものが出てきました。

スティーブ・ジョブズを切り口にアップルの歴史をたどる、という企画です。
While You Were Out: Apple’s Years With and Without Steve Jobs

これは、上に挙げたようなものほどグラフィックに優れていたりとか、直感的にわかりやすい訳ではありません。でも、年代を追ってアップルの製品と当時のジョブズの様子が写真とテキストでわかりやすく表示されている点、一部のスライドに簡単な音声の説明がついていたり、当時のNYTの関連記事(ニュースとしての記事や製品のレビューなど)へのリンクが貼られている点は、さすがです。

ちょうど最近ジョブズについての本を読んだのですが、内容は面白いものの製品の写真がほとんどなく、それがどれほど革新的だったりユニークだったりしたのかというイメージが掴みづらいなと思っていたところでした。なので一層、テキストと写真を組み合わせたNYTのページがありがたく感じられました。

以前からの繰り返しになりますが、きちんとしたコンテンツを、視覚的にわかりやすく、操作しやすく伝えることは、ウェブ上での新聞社の大きな強みになります。今回の企画のように、昔の記事をアーカイブとして活用する視点が加われば尚のことです。

この企画は、URLに「2009/01/22/」という箇所が含まれるところを見ると、2009年に作られたものをベースに情報をアップデートしたものではないかという気がします。しっかりしたフォーマットを作っておけば、後は情報を更新することで何度も使うことができ、しかも内容の充実度が高まっていく、というのもこうした企画の特長です。このような取り組みがもっともっと増えていくといいなと思います。

「Playing for Change」のローカライズ

世界各地のミュージシャンたちが曲を歌いつなぎ、音楽の力で世界を変えようという「Playing for Change」(関連エントリ)。ロジャー・リドリーやグランパ・エリオットなどが歌う「Stand By Me」などは日本でも大和証券グループのCMで流れていますが、最近この曲に日本のミュージシャンも参加したバージョンがあることに気づきました。

大和証券のウェブサイト(こちら)によると、ギタリストのChar,雅楽師東儀秀樹、そして若手シンガーソングライターの福原美穂が参加しているとのこと。こちらで、3人がそれぞれ歌い演奏する「Stand By Me」、「Chanda Mama」、「Don't Worry」CMを見ることができます。

特にこの会社のPRをするつもりはないのですが、これは面白い試みだなあと感じました。既に存在している「マスターテープ」とでも呼ぶべき素材を元に、一部がCharのギター演奏に差し変わったり、バックのコーラスはそのままに福原美穂の歌声がメインの旋律を歌ったりしています。元々の作品も、世界中のミュージシャンたちの歌声や演奏を一つのコラボレーションにまとめ上げたアイデアの妙と編集の巧みさが光るものでしたが、そのアプローチを先に進めて見事なローカライズが行われています。

上記の3人が参加した1曲丸ごとの動画は見つからなかったので、恐らくはCM用に一部だけがこのような形で作り直されたのだろうと思います。Playing for Changeか大和証券(もしくは担当の広告代理店)か、どちらからこのアイデアが出てきたのだろうと興味があるところですが、このフォーマットは日本ならずともいろんな場所で使うことができそうです。完成形だと思っていたPlaying for Changeの楽曲たちですが、こんな発展形があったかと新鮮な思いで動画を楽しみました。

ライヴストリーミングの広がりが持つインパクト

アーティストによる先進的なUstreamの利用が広がりつつあります。先月行われた宇多田ヒカルの公演のUstreamによる無料配信は大きな話題になりましたが、海外100の国・地域を含む34万5千のユニークユーザー、最大で10万以上の同時アクセス、計104万のページ・ビューを集めたそうです(AV-WatchIT Mediaの記事などを参照)。また、坂本龍一はあす9日に行われる韓国での公演をUstreamで配信することにしています(ナタリーの記事などを参照)。

一般人とは状況が大きく異なりますが、こうした有名人による「個人」をベースにしたライヴストリーミングの広まりは、テレビとネットの関係を中心にしたメディア環境の今後に大きな影響をもたらし得るものではないかという気がしています。今回はそんなテーマで感じたことを書いてみます。

音楽の動画を気軽に見る手段としては、YouTubeが今でも圧倒的な人気を誇っています。ネットにさえ繋がっていれば実質的にいつでも、どこでも好きな音楽クリップを見ることができるという今の環境は、(正規の手順を踏んでいるかどうかは別として)大量のPVや公演の動画などがアップロードされているYouTubeの躍進が一つの契機となって生み出されたものだからです。YouTubeは、2009年秋にU2の公演のライヴストリーミングなどを行ったりはしましたが、基本的には何らかの形でパッケージ化されたコンテンツ(もしくはその一部)をオンデマンドで提供するサイトです。一方Ustreamによる上記のような配信は、「どこでも」には対応していても「いつでも」には対応していません。その代わり「同時体験」を楽しむことができます。

ここから感じられたことが2つほどあります。まず、音楽の楽しみ方という点ですが、コンサートというのは今後、「同時に見ること」から「その場でリアルな体験を共有すること」に価値がシフトしていくのだろうなということです。ナマであれ録画であれ、メディアを通した配信では伝えきれない場の熱気や会場の一体感などが、コンサートの魅力としてよりクローズアップされていくようになるのではないでしょうか。そしてもう一つはメディア的な観点からの感想ですが、Ustreamによるこのような大規模同時配信は、テレビが未だ持つ大きな力の源泉とでも言える部分、つまり「ニュースや大型スポーツ中継などを通じて多くの人にライヴで同時に情報を伝えること」にもネットが進出しつつあることを示しているのではないかという印象を受けました。

もちろんニュースの取材には手間がかかりますし、五輪やワールドカップを始めとしたスポーツイベントには莫大な放送権料や中継制作のノウハウ・リソースなどが必要とされますので、資金や人員に富む大組織でないとこなし切れないという部分は今後も残っていくでしょう。でも、今回例に挙げたミュージシャンのように、個人の才能と人気を核に勝負するというケースの場合は、新しいメディアへの取り組みについて、より柔軟な意思決定や機動的な展開を図ることができます。

テレビという巨大なメディア全体から見ればコンサートの動画というのはマイナーなものです。でもそうした周縁的なところからでもネットによる個人主体のナマ配信が存在感を持ち始めたことの意味は大きいものだと感じます。特に数十万、数百万という規模のファンを持つアーティストや俳優、スポーツ選手などは、ブログやツイッターなどの枠を大きく超え、動画を含めて正に「ファンと直接繋がる自らのメディア」を持つことができるようになってきているのです。今年のCESで話題になっているようなネットTVが今後本格的に普及して、ネット上の動画がテレビでも気軽に見られるようになれば、宇多田ヒカルが行ったような公演の配信はよりインパクトを増し、テレビ的な視点からも「マス」と呼べるほどのイベントも生まれてくるかもしれません。動画を取り巻くメディア環境の変化はこれからまだまだ続いていきそうですが、その中でもこうした有名人による個人を主体とした動画配信の取り組みには注目していきたいと思います。