iPadと話し言葉の音声コンテンツ

いよいよアメリカではiPadが発売されます。どんな感想や反響を呼ぶのか気になりますが、すごく地味なところで個人的に関心を持っていることがあります。iPadの登場により、iTunesiPod,iPhoneなどがこれまで育ててきた「話し言葉の音声コンテンツ」とでも言うべきものはどんな影響を受けるのだろうかという点です。

iTunesiPodが音楽ビジネスに地殻変動をもたらしたのは周知の事実ですが、その一方でこれらは、音楽ではない"話し言葉"の音声コンテンツのあり方も大きく変化させました。Podcastによるニュースやラジオ番組、あるいは個人発の音声コンテンツの配信が最も思いつきやすい例だと思いますが、ビジネスという面から考えると、有料配信されるオーディオブックの市場に与えた影響も見逃すことができません。オーディオブックは英語圏では日本よりもずっと普及しているとはいえやはり地味な存在ですが、それでもアメリカの業界団体であるAudio Publishers Association(APA)の推計(こちら)によると、図書館が購入する分も含めれば年間10億ドル近い市場があるとされています。そしてその成長にはダウンロード販売が大きな役割を果たしてきました。

小説などを音声化すると、一般に1冊分がかなりの時間になります。僕が最近オーディオブックで聴いた小説は13時間ありました。例えば「Gone with the Wind」(風と共に去りぬ)は49時間もの長さになります*1。値段が高めなのは今も昔もあまり変わらないのかもしれませんが、iTunesなどにダウンロード販売されるオーディオブックは、CD版にはない大きな強みを持っています。場所を取らないことと再生の利便性です。

仮に1枚のCDに80分録音できるとしても、読み上げて15時間かかる小説はCD12枚組にしないと収まりません。そのボリュームを考えただけで買うのを躊躇してしまいそうです。また、CDの場合は途中まで聴いたというピンポイントの位置から再開するのがなかなか困難です。適当な場所で聴くのをやめると、その正確な場所に戻るのに手間取ってしまいます。あまり使い勝手が良いとは言えません。でもダウンロード販売されるオーディオブックでは大作でも保管場所を気にする必要はありませんし、多くの場合、前回聴き終えた場所から再生する「再開」機能がついています。ネットを通してやり取りされるデジタルデータになったことで、オーディオブックは格段に使いやすくなったのです。実際、オーディオブック市場におけるのダウンロード販売の割合は、2004年の6%から2008年には21%まで増えています(APAの調査より)。オーディオブックは出版された本を音声化したものですが、Wikipediaでは「spoken wordsをレコーディングしたもの」と定義されているように(こちら)、紛れもなく話し言葉の音声コンテンツです。最近日本でもAudibleというオーディオブックのダウンロード販売を専門に行う会社の名前を聞く機会が少しずつ増えてきましたが、iTunesiPodはオーディオブックを購入することへの敷居を大幅に低くし、いつでも、どこでもオーディオブックを楽しめる環境を整える上で大きな役割を果たしてきました。

また最近ではiPhoneなどのスマートフォンの興隆により、"話し言葉"が新しい形で注目されています。音声検索や音声認識メモ、音声認識メールなどのサービスです。電話と結びつくことで、"話し言葉"はこうした言わばデバイス上でのアウトプット型のコンテンツとしても利用されるようになってきています。音楽でもない"話し言葉だけの音声"と聞くと、何だかふた昔ぐらい前の遺物であるような気がしたりとか、あるいは無味乾燥なイメージがあるかもしれません。でもこのように、iTunesiPod, iPhoneは「話し言葉の音声コンテンツ」とユーザーの関わりを深める働きをしてきたのです。

一方、iPadはそのスクリーンの大きさを見てもわかるように、「視覚」を非常に重視したデバイスです。それはとても魅力的なことなのですが、ビジュアル面を際立たせることは、もしかしたらそれ以外の面を霞ませてしまうことにもつながるかもしれないと感じます。音声が、動画にしろゲームにしろiPadで使われるコンテンツの重要な要素であり続けることはもちろんです。でも「音声のみのコンテンツ」はiPadではどのように位置づけられるのだろうと考えると、あまりイメージが湧いてこないのです。音楽であれば、YoutubeのPVなどに見られるようにミュージックビデオなどの形で映像と音声が融合すると想像できそうですが、「話し言葉の音声コンテンツ」の場合はなかなかそうも行きません。ここにiPhoneiPodiPadの棲み分けがある、と言うこともできるかもしれませんし、「話し言葉の音声コンテンツ」も今後何らかの形でビジュアル効果を取り入れて発展していくのではないか、と考えることもできそうです。いずれにしても、これまでiPodiPhoneが育ててきた「話し言葉の音声コンテンツ」をiPadと結びつけるのであれば、これまでとは違うアプローチが必要になるのではないかと感じます。

*1:これはアメリカ版のiTunesで売られていますが、値段も41.95ドルとかなりのものです。